責任者(長老):佐野村 義人
(経歴)
1993年
山口県山口市にて両親がクリスチャンという家庭に生まれる。
2012年
地元の高校を卒業後、裁判所職員として島根県にて勤務。
2015年
島根県邑智郡川本町にある「川本キリスト恵み教会」にて聖書の話を聞き、イエス・キリストの救いを信じ、クリスチャンとなる。
2016年
2月28日にバプテスマを受ける。
2017年
献身を決意する。
2018年
教会にて訓練を受けるため、裁判所を退職。
以降教会にて聖書の学びと訓練を受ける。
2020年
岐阜県岐阜市に遣わされ、同年9月1日に「岐阜聖書キリスト教会」を立ち上げ、現在に至る。
(趣味)
お菓子作り
(・・・最近忙しくて作ってませんが)
(好きな御言葉)
『私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』
(聖書:ローマ人への手紙8章38,39節)
私は山口県山口市に、クリスチャンである父母の元に生まれました。
幼い頃から、両親の集う山口県のキリスト教の集会で、聖書の話を聞き、私自身も、小学校1年生の頃から毎日かかさず聖書を一章ずつ朗読するなど聖書に多く触れながら育ってきました。
そのために、良い人になれるよう、自分なりに努力しました。
けれども、正しいと分かっていることでも、どうしても行うことができず、また、正しいことをしたとしても、長続きしない・・・。
そのようなことで、自分自身、無力感に苛まれていました。
また、聖書は神様が完全にきよく正しい方で、嘘やけんか、悪口などといったことも神様の前には罪であり、これらの罪を一つも見逃すことができない方であることを語っています。
このことから、もしも、自分の行いによって天国に入れるとしたら、このような罪を全く行っていない、完全に正しい人でなければならないことを知り、また、同時に、自分は、そのような神様のきよい基準には、絶対に到達できないことを理解しました。
そして、自分自身の至らなさに失望し、まるで暗黒の中にいるような感覚を持ちながら、かなり長い時間を過ごすことになったのです。
神様の前に正しくあることができない自分は、死んだらさばきを受け地獄(火の池=ゲヘナ)に行かなければならない・・・。
神様の前に正しい行いができない自分を見て、日々、死に対して怯えていたのです。
さて、そのような思いを抱えたまま、高校を卒業し、地元を離れ、裁判所職員として、島根県松江市の裁判所へ就職しました。
仕事で非常に忙しい生活をしながらも、神様について、死と死後のさばきのことが頭をめぐる日々でした。
そして、その3年後に、島根県の川本町の裁判所へと転勤しました。
その頃、クリスチャンである母は、私の転勤先である川本町に私が行くことのできる教会はないかとわざわざ調べてくれて、「川本キリスト恵み教会」という教会を見つけてくれました。
また、さらに、母は、実際にその教会まで足を運び、その教会で作成している教会新聞などを持ち帰って、私に見せてくれたのです。
そして、「この教会に集うと良いよ」と私に勧めてくれました。
それが2015年6月のことでした。
ところが、私は、母の勧め通りに、すぐに教会に行こうとはしませんでした。
当時の私は、仕事も楽しく順調で、生活も充実していると感じており、また、「今まで、自分の死後のことを考え、ずいぶんと悩んできたが、どうすることもできず、ただ苦しいだけだった・・。もう神様、イエス様、聖書には、こりごりだ・・・」と思い、今まで、ほぼ毎日かかさずに読んでいた聖書も、めったに読まなくなっていたのです。
そうして、日曜日に教会に行くこともなく、また、聖書に触れることもほとんどせずに数ヶ月が過ぎました。
その頃の私は、時間やお金にもそこそこ余裕があり、不自由を感じていなかったのですが、その一方で、心の中に、何とも言えない、むなしさがこみ上げて来るときがありました。
「生活に問題はない。それなりに楽しいことはある。でも物足りない。何か、むなしい・・」
そのような思いが、自分の中で、次第に大きくなってきました。
しかし、自分では、このむなしさをどうすることもできず、悶々とした日々が続きました・・・。
しかし、そのような中で、ふと、母が以前に勧めてくれた教会のことが頭に浮かんだのです。
そこで、「どういう所かは、全く分からないけどとりあえず一度行ってみよう・・」と思い立ち、教会を訪ねてみたのでした。
2015年10月末の日曜日の朝のことです。
初めて訪れた教会でしたが、牧師さんを始めクリスチャンの方々が、温かく迎え入れて下さいました。
そして、その日から、教会に集うようになったのです。
ところで、私は、小さいころから、聖書を読んでいたこともあり、多少の聖書の知識はありました。
しかし、その聖書に書かれていることの意味については、全く分かりませんでした。
しかし、礼拝のメッセージや、聖書の学びの時間、そしてクリスチャンの方々との交わりを通し、段々と、聖書に書かれてあることの意味が、分かるようになってきました。
これは、今まで聖書を読んでいたときには経験したことがないことでしたので、大変、衝撃的なことでした。
さて、何度か教会に集っていた、そんなある日の礼拝のメッセージの時に、牧師さんが、聖書の中から、十字架にかかられたイエス様と強盗の話をされました。
それは以下のようなものでした。
聖書は、イエス様が十字架にかけられた際に、二人の強盗も一緒に十字架に付けられていたということを語っています。
(聖書:ルカの福音書23章32節~)
十字架刑は、当時の極刑で、人間が最も苦しい死に方をすることになる恐ろしい刑ですから、この2人の強盗は、強盗に加えて、殺人などとても悪いことをした凶悪犯であったと思われます。
十字架刑に付けられたら、最後、二度と降りることはできません。もだえ苦しみながら、死んでいくだけです。
もはや、被害者や遺族に謝罪したり、賠償したり、また、これから良い人間になろうと反省、更正することが絶対にできない状態でした。
しかし、この強盗の内の1人が、イエス様を信じました。
彼は自分が罪人であり、もはや、どうすることもできないこと。
そして、イエス様が自分の真の救い主であることを見出したのです。
その信仰を告白した強盗に対し、イエス様は、「あなたはパラダイス(天国)に行く」と、彼が救われたことを宣言されました。
このように、あと少しで死ぬことが決定しており、悪事に対する償いも、これまでにしたことの挽回も、良いことの一つもできない強盗が、イエス様を信じるだけで救われたのです。
私たち人間は、神様の前に、皆罪人であり、神様から裁かれて、死後地獄に行かねばなりません。
しかし、その私たちの罪の身代わりとなって、イエス様は十字架にかかり死なれ、復活されたのです。
良い行いではなく、この救われた強盗のように、ただ、イエス様を自分の救い主と信じるだけで、どんな人でも救われるのです。
これが、神様の愛です。
このことを聞いた時に、良い人間にならなければ救われないと考え苦しんでいた私の心に光が差し込んできました。
イエス様の十字架の話については、小さい頃から周りのクリスチャンの方々から何度も聞いていたのですが、その意味を私は十分に理解していませんでした。
このメッセージを聞いた際に、行いではなく、イエス様を信じるだけで救われるのだという、イエス様の十字架の意味を、初めてちゃんと理解することができたのです。
そして、その後、イエス様が私の救い主であるということを信じ、2016年2月28日にバプテスマを受けました。
私は、今まで、自分の罪と死後の裁きのことを思い、そして、どうすることもできないという現実を目の当たりにし、ただ死の恐怖の中にいました。
しかし、今、私を愛し、私のために死んでくださったイエス様の大きな愛を知り、また、このようにすばらしい救いを得て、本当にうれしく思い、神様に感謝しています。
そして、この素晴らしい救いをぜひ多くの方に知って頂きたいと日々願っています。
『すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないを通して、価なしに義と認められるからです』
(聖書:ローマ人への手紙3章23,24節)